言いたい事がある。 言えない事がある。 言わなきゃいけない事がある。
「赤三つってのは凄いなぁ、七海。」
男が呼ぶ『七海』は俺の苗字。 返って来た俺のテストを眺めながら、この男は呟く。 授業中を有意義に過ごしていたお陰で、俺の答案は悲惨だった。 いや、逆に荒涼として清々しいぐらいだ。
答案用紙から顔を上げたコイツは、目の前で不貞腐れる俺を見る。 苦笑いと、呆れの表情で俺を見る。
「三年になる気あんの?」
随分と砕けた口調で言いながら、紫色の煙を吐く。 この男は、煙草吸いながら生徒と面談する不良教師の佐野。 で、俺は不良教師のクラスのダメ学生。 基本的に、授業中は眠っている。
「まっ、良く寝てたらしいじゃん。」
カラカラとこの男は笑う。 大学出て二年も経っていない癖に、小憎らしい面だ。 六歳しか違わないのに、この態度の大きさ。 一々気に障って仕方が無い。
「何だよ、出来てんのは地理だけか。」
得意げに笑うこの男。 何故って、地理を教えてるのがこの男だからだ。 確かに、地理のテストは良く出来た。 何故って、地理を教えてるのがこの男だからだ。
「少しは勉強した方が良いぜ?」
「大きなお世話だよ。センセ。」
この男が顔を近づけてきたから、俺は顔を背けて言い捨てた。 それが可笑しかったのか、またカラカラと笑う。 この男がこんなに笑う奴とは知らなかった。
「進級させて欲しいんじゃねぇの?」
この砕けた口調はいつもの通り。 でも、今日は少しだけ口数が多いかもしれない。 多分、こんなにこの男と話したのは初めてだ。
「そりゃぁ、したいけどさ。」
顔を背けたまま、呟く。 勉強する気になれないのだ。 テスト前にはノートを開こうとすることもある。 しかし、そんな時に手に取ってしまうのは大体地理のノートなのだ。
地理が好きなわけじゃない。 基本的に勉強なんて嫌いだ。 でも、消去法で行くと地理になる。 それも高校に入ってからだが。
「おーっ、字まで違うな。」
国語と地理の答案とを見比べるコイツ。 今まで無自覚に丁寧に書いていた。 でも、今回は自覚的に綺麗な字を書いた。
多分、こうまですれば気が付くと思った。 気が付いて、距離を取ってくれれば諦めもついた。 なのに、この男は一向に変わる気配が無い。 去年の春に初めて会った時のままだ。
「まっ、素行も悪くないしなぁ、進級させてやっても良いんだけど。」
テーブルに肘を突き、こっちを見る。 唇の端を少し上げて、楽しげに笑っていた。
「で?何か先生に言うことないか。」
腹が立つ。 俺の気持ちを薄々分かっている癖に、全然気にしない。 さっきから二人きりで、俺はこんなにドキドキしてるのに。 そんな気持ちを踏み躙るように、さっさと切り上げようとしている。
「別に。佐野に言うことは・・・・ねぇよ。」
そうだ、と思いついた。 ここで「進級させてくれ」と言わなければ、もう少しここにいられる。 この男と二人きりで話していられる。
「お前なぁ。留年させたら俺も面倒なんだぞ。」
この男の都合など知ったことじゃない。 俺にも俺なりの都合があるんだ。
俺は、目を合わさないように窓の外を見た。 二月の寒空の向こうに夕日が沈もうとしている。 夕焼けの綺麗な日の翌日は晴れだ、と聞いたことがある。 俺が聞いてたんだから、多分この男の話だったと思う。
「明日休みだし、早く帰りたくないわけ?」
明日は休み。 月曜も休みだから三連休だ。 若いこの男も、何処かへ出かけたりするのだろうか。 ・・・・・付き合ってる女とでも。
「彼女とかいんの?」
俺の問いかけに、この男は笑い出す。 何が可笑しかったか知らないが、俺はまた腹が立った。 何だかとても馬鹿にされたような気がして。
「何が可笑しいんだよ。」
「別に。いねーよ。あー、どうせ独りモンだよ。」
台詞の割りに、随分と楽しそうな返事。 その返事が可笑しくて、ついつい笑ってしまった。 俺が笑ったのが気に喰わなかったか、この男は顔を顰める。
「あのさ、アンタの好みってどんななワケ?」
何だか気になった。 別にこの男の好みになれる訳でもないが。 でも、参考ぐらいにはなるかもしれない、と言う打算と共に。
好み、と言う言葉に彼はククッと笑いを漏らす。 そして、手を顎に当てて作ったような思案顔になる。 それを見詰めていると、突然彼がこちらを向いた。
「歳下で、少し生意気なぐらいで、健康的で、目が大きくて・・・・。」
堰を切ったかのように、この男の口から言葉が溢れ出す。 アバウトな線を予想していた俺は、細かい注文が並んで驚きを隠せない。
「態度が分かり易過ぎるくせに意気地なしで、赤点を三つも取って、俺の科目だけ出来る奴とか。」
俺の思考は止まった。 この男は何が言いたいんだ? さっきから浮かべてるこの笑みは何だ?
「俺、に何か言うことない?」
笑みが消え、突然真面目な顔になる。 いつもヘラヘラしているこの男には珍しい。 思わず、胸が高鳴る。 そして、自然に言葉が出てきてしまった。
「・・・・・好き、です。」
俺をじっと見詰めて、この男が黙る。 言ってしまって、俺は心音が頭に響くほど緊張した。 と共に、強烈な後悔に襲われた。
この男は一言も発さない。 どうしよう、顔が熱い。
「明日は暇か?」
「?」
「暇か?」
ワケも分からぬまま、一つ頷く。 どういうつもりなのだろう。
「九時半に駅に来い。援交にならない範囲で奢ってやるから安心しろ。」
そう言ったかと思うと、この男は席を立つ。 言葉を発せないまま、俺は男を目で追う。
「どうした?」
「えっ・・・佐の・・・・・。」
言葉を出し切れないうちに唇を塞がれた。 これ以上無いくらい近くに、この男の顔がある。 口付けられた、と認識したのは男が離れてからだった。
「学校の外では祐二だ。」
にやりと笑って、男は部屋を出る。 残された俺は、一人パニックに陥るのだった。
「佐野祐二。」
その男が自分のどんな存在になるのか。 まだ分からないまま、俺は呆然とその名を呟いていた。
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